「親愛なる上席参議、我が友山羊沢数樹、私の心からの忠告をどうか聞き届けて頂きたい。」そう始めた手紙に、私は切実さを以てこう続けた。山羊沢数樹は私の大学時代からの友人であり、親交関係の狭い私にとっては唯一と言って過言ではない気心の知れた相手である。
ジャンヌ・ダルクの身に生じた〝幻視と啓示〟についてその真偽が歴史的事実上重要ではないことは今や誰もが認めるところであるが、それは後世に至り百年戦争が歴史上のいちイベントとして記号化されてからの話である。ジャンヌ・ダルクが軍事的に力を得てイングランド軍に打撃を加えフランス王の戴冠に影響を与え、更には異端審問にかけられて処刑されるに至る一連の経緯に、〝幻視と啓示〟は避けては通れないファクターである。当時否その後列聖され神格化を受け以後400年に渡り、〝ジャンヌ・ダルクの幻視と啓示〟は間違いなく当時のトレンドであったし、事実であったろう。
さてここで、巷間ジャンヌ・ダルクと比較されるグレース・ボルツマン・トンベリを見てみよう。彼女はオルレアンの解放ではなく地球大気浄化を謳い、乙女の身ひとつで世界相手に孤軍奮闘した聖女とみなされている。彼女は揺るぎない信仰ではなく確固たる信条を掲げて戦いに身を投じ、彼女に賛同する市民の声は今や世界を動かそうとしている。ジャンヌ・ダルクがボルドー制圧によって百年戦争が終結するを知ることなく処刑されたように、グレース・ボルツマン・トンベリも地球環境の大修正、昨今言うところの〝グレート・リセット〟の完遂を見ることなくこの世を去った。彼女の死が、インドの政治的混乱に対する或る種の引責としてもたらされたことも、ジャンヌ・ダルクがシャルル7世を取り巻く政治的策謀に利用される形で異端審問にかけられ処刑に至ったことと、実によく対比される。
グレース・ボルツマン・トンベリに対して、懸命に客観視を試みようであるとか、その環境保護活動に陰謀性を見出そうであるとか、あるいは精神疾患や障害に火口を探ろうとすることは、これと同じである。つまり、それが求められるのはより後世になってから、地球の環境が変化してから、グレート・リセットが本当に完遂されカーボン・ニュートラルの世界が安定軌道を歩みはじめてから更にその子孫が歴史を俯瞰しようとしたときで十分ということだ。
何が重要であるのか、見失ってはいけない。
ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いた。ならば、グレース・ボルツマン・トンベリは一体何の声を聞いたのか、である。
地球環境は、一定数の科学者が示す定義と程度においては、清浄に向かっている。地球はより良い惑星に生まれ変わり、人類は明るい未来へ再びあるき出したのだと言われている。だが、だのにどうだろう、地球上には戦争が蔓延り、憎しみが渦巻き、悪意と殺意が消えることはない。地球環境の浄化はその過程において、〝国家〟を破壊し〝企業〟を新たな王に据え、経済による支配の体制を固定化させた。支配者層による搾取は中世のそれよりもよほど残酷であるし、もはや構造と火力と包囲の強固さにおいて、革命や転覆の可能性は無いに等しい。ほんの一握の人間を除いたほとんど全ての人間は貧困に由来して道徳と良心を失い、万民の万民による万民のための闘争が、隣人から僅かばかりの金色の血を吸うために繰り返されている。本当に人類の福音だったのか、私には疑問を禁じえない。
グレース・ボルツマン・トンベリは、一体、何者の声を聞いたのか。その声は、こうして人類を頽廃の極みに陥れたのだ。地球は救われた?それはどうだろう、地球の環境が激変して温度が急上昇しようとも、人類以外の生命いずれかは、存続する。地球が滅ぶような出来事ではない、人間が滅ぶだけの出来事だ。そして、おそらく人類は、この期に及んでそう長くあるまい。新たなる王となった企業は、お互いに剣を抜こうとしている。中世のそれと違い、こんにちの戦争が用いる火は、もろとも地球を燃やし尽くすだろう。そう遠くない未来、地球環境に関わりなく人間は、自らの火で自らを滅ぼす。即ち地球大気清浄化など、地球の存亡には関係がないのだ。
グレース・ボルツマン・トンベリは、一体、何者の声を聞き、その声は誰のために囁かれたのか。
地球の大気は本当に〝汚染〟されているのか?大気と気候と温度の変化は、本当に我々人類の活動が招いたことなのか?地球環境の清浄化は本当に人類のためなのか?我々人類は〝聖女の顔をした何者か〟に煽動されたのではないのか?
我々人類は、我々人類の地球支配を取り戻さなければならない。或る意味で人間の欲望に汚れていなければ、地球の環境は人間のものではなくなる。
地球の大気が正常になることに因って利を得る〝人類以外の何者か生命〟があるのではないのか。
私はグレース・ボルツマン・トンベリを異端に問う。彼女は本当に〝人類に対して正統〟であるか?
私はその後に幾許かの日常会話を添えて、手紙の末尾を締め括った。上席参議である山羊沢は、「改正循環型社会形成推進基本法」の草案を作り上げた諮問機関の一員である。彼の立場なら、この法を撤回するよう動くこともできると、そう信じてのことだ。
一週間経ち、返事を待ち気が気でない中に二週間経ち、もしや検閲でもされて彼のもとに届いていないのではないかと思い始めた三週間と二日目に、ようやく返事が届いた。一縷の望みを託す思いの反面で同時にはやる気持ちを抑えながら、ペーパーナイフで不安定な切り口を開いた。几帳面に三つ折りされた便箋を開き、その折り目に対しては少々稚拙さのある文字を目でなぞる。
親愛なる我が友垣、心からの忠告をどうもありがとう。だが君の提案は受け入れられない。君も知っているだろう。もはやこの地球上のどこにも、たとえ南極の最果てだろうと赤道直下の未開の洞窟の奥底だろうと、大気汚染に僅かにでも加担するような活動は許されない世界に、今やなっていることを。生命の適応変化の速度を凌駕する激しさで地球環境を破壊しているのは他でもない人間種だ、その破壊を以てして地球を人間を守ることになるとは、どのような了見なのか。
グレース・ボルツマン・トンベリがオルレアン解放の乙女もとい、地球の未来を解放した聖女であることは、今や疑いの余地を持たない。彼女にはその〝力〟があった、我々人類を導いた、それが事実だ。彼女の声に従い我々市民は旧態依然とした汚染と利権にまみれた〝国家〟を相手に戦いを挑み、新たな秩序と清浄な地球を取り戻そうとしている。
君の言葉はとてもではないが理解に苦しむ。何か歪んだ妄念に、つまり人類を滅ぼすことに血道を上げる思想に陥るよう何者かに誘導された、有り体に言えばある種の陰謀論に、時代が時代ならば悪魔崇拝に染まってしまったかのように見えてしまう。確かに企業と結んだ側面もあるが、そこに悪意を見出そうなどとは、些か疑り過ぎというものだ。僕は君が聡明な人間であることをよく知っている、らしくもない。先の手紙は読まなかったことにする、君は一度頭を冷やすべきだ。そうでなければ君は、ジャンヌ・ダルクが問われた〝異端と不服従〟の部分についてのみを問われることになってしまう。人類以外の何者か生命、だなど、君自身のために二度と口にするべきではない。
どうだろう、イギリス正確にはイングランドの片田舎に私がよく余暇を過ごす別荘がある。人の多く訪れない極めて閑静な村だ、ここで自然の美しさ、空気の清浄さ、遠き星々の整列を感じて心身を休めては。日本語で不自由のない環境も整っている、心配しなくていい。
果たして手紙は一笑に付された、それから幾度も山羊沢氏を説得しようと手紙を認めたが彼には何も伝わらなかったと見える。
何も山羊沢氏を愚かと決め付けるつもりはない、彼の言う通り国際社会は人間自身の活動に因る大気汚染を人間の存続に関わる重大な破壊活動と見做し、それを抑止するべく一致団結して清浄な空気を取り戻そうとしている。それに敵対するような私は、悪魔を崇拝する異教徒だろう。ただ、まだ何も生贄を捧げていないというだけだ。
歪んだ妄念に囚われている、私を指して山羊沢氏はそう言った。
そうだろう、一体誰が信じようというのだ、清浄な大気には即ち不純物の無い空気には彼等の力を台無しにする未知の成分もまた含まれないということを。人間が仮にも一時的にも地球の支配種族であり続けられているのは、大気汚染のお陰で彼等の力が発揮されていないからだなんて。〝彼等〟?力?大気汚染が人類を守っている?山羊沢氏の指摘の通り、確かに私の理性は既に狂ってしまっているのかもしれない。だが、嗚呼だが、私の脳髄は最早手遅れなのだろう。それを思い知ったのは、山羊沢氏への件の手紙を投函する二日前のことだった。
200にも及び地球をその数に分割した〝国家〟という小法人の枠組みを捨て、その空間的な制約から脱却した新機軸の支配法人である〝企業〟が、地球に汎く横たわる広大な観点と経験から設置した「清浄大気実験閉区」へ私も足を運んだことがある。大気汚染が正しく除去された清浄な大気を実験的に再現した実験都市だ。都市と言ってもその規模は破綻した国家まるごと一つである、加えて大気、海流、風と日照などあらゆる点で、正常化された地球環境を外部的に再現してさえいる。まさにグレート・リセットの物理的実証実験だ。〝企業〟法人だからこそ実現できた規模、〝国家〟法人では不可能だったろう。訪れた誰もがその実験都市を称賛し、浄化された空気と美しい自然に心を打たれ、剰え神をまで見出す者もいた。大気汚染の完全なる除去と正常化、横展開される海質改善と再生は、来たる未来への輝きに満ちた希望が確かなものとして現れた姿として捉えられていた。それは最早、崇拝にも近かったように思う。
だがどうだろう。一方の私、山羊沢氏曰く狂気に囚われ歪んだ妄念に沈んだ私の方はと言えば、その空気の純粋さに対して不吉な予兆を見出していた。太陽の光は燦然と煌めき、自然の有様は清澄たる光輝に満ちているというのに、私の目にはそれは血腥い真空、暗闇に潜む鉤爪の殺意、頭蓋の上天に鏤められた星影の呪文詠唱、超電導の悪意が、雪崩を打って押し寄せる悍ましい空間に感じられてしまい悲鳴を上げながら退出したのだった。あの日感じた精神を鞭打つ鋭冷な悪意の気配は今日この日でも夜毎の夢見に姿を現して、私の正気を石臼のように削り落としてくる。汚染を除去し希望あふれるグレート・リセット後の世界に対して私は、なんと冒涜的な感想を抱いたものだろう。
山羊沢氏の指摘は正しい。私はきっと、宝石を石くれと見る如くに、光を闇と違える如くに、愛を憎しみに紛うが如くに、すっかり正気を失っているに違いなかった。
うちの父がさあ、PM.58の怖さをわかってくれないんだよぉ
えーー?なにーー?!
俗に言う自転車暴走族の模範例だ。
車道も歩道も一切無視し縦横無尽に軌道を変えながら、自動車と張り合える速度で走り抜ける2台の自転車。ブラウスにカーディガン、指定のリボンはつけていない。
YourTubeの陰謀論系動画にハマっちゃって、PM.58は原発推進派のでっち上げだって言って聞かなくて……
はークソアプデクソアプデ!なぁにが〝全体のバランスを鑑みて発生Fを調節しました〟だ、バランスって言葉辞書で調べてから使えよクソ運営!!強キャラ上方修正インフレ加速でロビー砂漠化待ったなしですねこりゃあ!プレイヤーから税ばっか巻上げてヤるのがこのクソアプデ!クソ運営はクソ仕事しろこのクソやろうクソクソクソクソ!!
公道を一陣いや二陣の風となって迷惑千万に疾走するその様子では、校則通り膝より下まで丈のあるスカートもまるで用を成していない。なにせ、ただ立ち漕ぎして暴走するに留まらず剰え空気抵抗でも避けるように上半身を前に倒し重心を落としてさえいるのだ。たかだかスカート一枚ぺらに、ケツを守る力などない。
ねえちょっと、キーちゃん、愛しい私の悩みを聞いてくれないの?クソクソボリュームMAXで平和な近所さんの朝の食卓をクソ公害してるよ!?きーちゃんの声、団地に反響してめっちゃこっちに跳ね返ってきてる!ねえ、ねえってば、飛ばしすぎ!きーちゃんぱんつみえてるから、ぱんつ、ねえぱんつ、きーちゃんのクソぱんつ
それは違う!
聞こえてるんじゃん
輪郭が朧に膨らんだ太陽。朝から疲れたサラリーマン。擦れて消えかけの舗道の白。のし鱈みたいな雲。朝食で満腹の通勤軌道車。雲を突き破ってそびえ立つ、巨大な空調ポスト。スマホに溜まった迷惑メール。ほんのり酸い朝の空気。学校。富士山よりも、身近な朝。
英鯖で対待ちしてたら、ルロイ、ルロイ、またルロイ、9割ルロイ、馬鹿の一つ覚えみたいにルロイ!上方修正されたからっていい気になりやがって!
私、前からルロイなんだけどー……
平和な学校生活でも、朝は忙しい。特に日直の日は職員室に寄って日誌を受け取り、教室を掃除(かたちだけ)しなければならない。だが、家を出る時間はいつもと同じだ。
ボクの凛がカジュアルプレイの新参ルロイになんか負けるかっての!ボコしてやったら紅茶が罵詈雑言英会話教室!!さすがブリカス様お言葉のおラッシュがおえげつないですね!!巻き添え食らってボクまでキックされたわ、ふざけんな死ね!ハーハーハー!ルロイ死ね!運営死ね!!
うんー、なんか、昨日繋げなくてごめんね!?とりあえずパンツ隠そ?!
この速度でパンツガードなんかできるかべらぼうめえ!!ボクのパンツが見えてるなら、偲深だってパンツ丸見えだもんね!
やだーー!
ARヘッドセットから、サブスクストリーミングの合間を縫って政府広報系CMが差し込まれる。「本日のPM.58濃度は2.1‰、滞留する一部山間部では3.0‰まで上昇するでしょう」。偲深と呼ばれた女子学生のウェアラブルディスプレイには「運転中は映像が停止されます」の文字が小さく表示され音声だけが耳から流れていた。「脱法空気は犯罪です」流行りのタレントが厳しい声色で言うが、そんな放送きっと誰も気にしていない。「安全な自家浄水、それは詐欺です」の声も、多分誰も聞いていない。「臓器提供は18歳になってから」ふぅん。
平和な学校生活に、今も昔も大差はない。こんな世界でも、彼女達の日常に
学校へ向かって暴走していると、いつもは通る道が通行止めになっているのが見えた。特に警備員などがいるわけではないが、パイロンと看板が立っている。「通行止めの予約」といった感じだ。看板には本日10時から17時まで車両通行止めになる旨が書いてある。事由は「市民活動」。
げえっ。こっちの道、今日通れないみたいだよ
また環境デモ?ホコ天になって商店街や地元住民がお祭り気分を味わうだけだってのに。〝現代のジャンヌ・ダルク〟だの〝地球を汚染から解放する聖女〟だの、しょんべん臭いメスガキに踊らされやがって、衆愚が。PM.58なんて、太古の昔から大気中に存在してるって山鼻教授がゆってたぞ
PM.58はヤバいんだよ?ストリームウォリアーなんかやってる場合じゃないんだから
どうヤバいの?ボクに彼氏ができないのとどっちが問題?
それより期末試験かなー
国際感覚ーっ
毎日毎日自転車で通学をしている猛者にとって、道路の1本が使用不能になろうと痛くも痒くもない。自然に別の道を選ぶことにした。そうしてもう少し流した先、普段登下校にこそ使わないがよく知った場所に、ひとつ、折れる道がある。小さい頃から親に「そっちに行くな」と言われて育った。取って食われるなんて怪談を子供心に疑っていた彼女達も、その向こうが何なのか、今は否応なく察している。
あ。日直の任務頑張ってくれたまえ。ボクは今朝も一人便所で寂しくASMR動画でも見ながら時間を潰すよ。
え?なんでトイレ?あっ、また便秘?
ちげーし。いやだなあ、偲深クン、しらばっくれてくれちゃって。彼と日直で二人っきり、淫らでふしだらな学生生活のワンシーンを刻もうって、そういうつもりで張り切ってきたんだろお?
化け物が大きく口を開けたみたいにやたらと太い道幅を少し奥まで覗き込めば、それを詰まらせるように夥しい数の人が路上に寝ている。ダンボールの犬小屋にダンボールの布団、ビニール袋と自転車と押し車。食用商品の空カートリッジの山。道の入口から異様に漂うアンモニア臭。路上でなくともその一角より奥から突然と、建造物の背丈が低くなり質が落ちてみすぼらしくなっているのが、一見してわかる。手前には、「この地区はまだ解放されていない」「人間である権利を奪うな」「労働の正しい対価を」とペンキで叩きつけたような文字で書いた、ベニヤの看板が立っている。それらを覆い隠すように一番手前に、公的な佇まいの看板が立っている。「この先PM.58濃度未計測区画につき、」その先はペンキで塗り潰されていて読めない。
やだ、何言ってるの!?そんなえっちなこと。それに暁斗くんはもうさ
淫らでふしだらなやつだー!
ちょっ、勝手に話作んないでよ!
彼女らはその向こうが異界であることをよく知り、同時に彼女たちにとってその異界が隣り合わせにあることも日常に過ぎない。物心ついた頃からずっとそうなのだ。何の感慨もなくその小路の入り口を、横目に爆走して通り過ぎる。
彼女達のような自転車暴走族にとっては、この辺りは人通りが少なく流しやすい地域だった。昨日の夜の出来事を思い出してげらげら笑いながら、その横を通り抜け、今朝も学校目指して爆走。これも、平和な学園生活にバンドルされたありふれた日常の一コマ。彼女たちの日常に変わりなどない。
ぐぬぅこのリア充小娘が、24時間耳からへビースターラーメンの咀嚼音が流れ込んでくる呪にかけてやるわ!!
流石に嫌だなあ
そらみろ。ヤツへの恋愛感情なんて、ヘビースターラーメン以下なんだ。あんなやつほっといて、一緒にEVOの星を目指そうぜ
もっと嫌
PM.58は最近発見され、同時に既に蔓延し尽くしていると判明した汚染物質であり、新型の環境ホルモンとも言われ様々な疾病を誘発していると見られる。近年激増する原因不明な公害病はPM.58が原因と見られており、各国政府は激変する公衆衛生・健康の対応としてドラスティックな施設や法整備に追われている。むしろ、こうした汚染体質の責任を、国家は問われていた。
公的法人としての〝国家〟は汚染の責任と対応の遅さを指摘され、もとから行き詰まりを見せていた支配体制は地球上のどの場所でも、揺らいでいる。国家に代わってPM.58の対応に積極的なのは企業であり、民衆の支持も国家よりも企業に傾いている。企業は、〝国土〟を除く政治支配へ流用可能なサービスを既に広く展開しており、しばらく昔から、政治のバトンタッチを声高に叫んでいた。現代、国家の市民であることよりも、企業の社員であることの方が、受けられる福利厚生の点において優れている。早晩、〝国土〟を基盤とした国家は支配力を失うだろう。民衆もそれを望んでいる。〝企業〟法人による〝国家〟法人の、国体簒奪が実現するだろう。
偲深、貴様、男になんかうつつを抜かして、そんなことでボク等の青春が完遂できると思っているのかぁッ!?ボク等の戦場は、ストリームウォリアーにあるッ!!
でもキーちゃん、私にレシオで勝てたことないじゃん。
ガシャン!ガラガラガラ……ズサーーーーッ
先を行っていた方の少女が派手に転んで自転車ごと吹っ飛んだ。
死んだ?
ころすな。ボクはまだ負けてねーぞ
ところでその暁斗くんだけど
おう。昨日セックスしたのか
昨日一緒に帰ってるときに、いきなりぶっ倒れてさ。病院ついてったら変形癌だって。親御さんが清米地区で仕事してるから、PM.58が原因じゃないかって。だから昨日繋げなかったんだ、ごめんね
輪郭が朧に膨らんだ太陽も、数日に数時間しか晴れ間を見せない雲も、その雲を突き破ってそびえ立つ巨大な空調ポストも、ほんのり酸い朝の空気も、空気税も、水道の飲用制限も、すべてこの流れの中にある。国家が汚した地球を、企業が積極的に浄化しようとしている。
かつて、汚染の主体が企業だったことを、今や誰も憶えていない。そのマッチポンプは、一体、何を目論んだものだろうか。
人生セーブ不能で一度きりって、クソゲーだよね。
えっと
EVOの星、目指しちゃおっか
……偲深のことはボクが貰ってやるから
そういうこと言ってないんだよね
彼女たちの日常に、代わりなんて、ない。
PM.58を野放しにして民衆を毒殺する政府を、赦すな!
役に立たない政府なんてぶっ潰してやるわ!
遠くで大規模なデモの声が聞こえる。低い雲に反射しているようだった。
政治家と癒着した企業が経済的な理由からPM.58の排出量報告を虚偽していたと判明し、取り調べを行わない警察庁舎を民衆が徹底的に破壊していた。デモ、と言えば聞こえはいいが、実態は暴動だ。
どこかで火の手が上がり、垂れ下がる雲に向かって煙を立てている。路傍でタイヤでも燃やしているらしかった。まるで政権不安定の貧困国のようだ。実際今の日本は、いや他のどの〝国家〟も、それと大差がない。
環境保護活動デモが国家転覆につながるなど、当初は誰も思っていなかっただろう。しかし今や、民衆はまるで常軌を逸し正気を失ったように、PM.58への憎悪を募らせ、排出する者に容赦しない。
民衆の攻撃性は取締の間に合わない国家そのものを打倒するほどの勢いだ。世界同時多発的に反PM.58を掲げる過激な暴動が続発し、幾つかの国では既に政府が倒されたとも聞く。
そのデモの声を他所に私は、しかし全く別の暴力に訴えていた。
ふん、PM.58を除去しろっていうのか……馬鹿め
馬鹿はどっちだろうか、と我ながら思う。
PM.58は明らかに人体に有害だし、人間以外にも害を与えている。PM.58は絶対に除去されるべきだし、実際に世界の潮流はいささか過激に、「反PM.58」に傾いている。
PM.58の排出を止めるな、だなんて口に出そうものなら、その場で集団リンチを受けて撲殺されるだろう。だが、私の理性はそっちを訴えているのだ。
〝Birdsaren'treal.〟
こんな風に滅茶苦茶になった世界は、奴らのせいだ。
はっ、はっ
目の前に、鳩の死体が転がっている。
狂った様子のシュプレヒコールを遠くに聞きながら私は暴れる呼吸と心臓をどうにか抑えつけようとするが、それはそう簡単なことではない。肉体的にも精神的にも、まだ極限の緊張状態にあり臨戦態勢を解除できていなかった。
こいつを仕留めるのに私は、見ず知らずの人間を三人、友人を一人、犠牲にしてしまった。
鳩。鳩?鳩なものか。人畜無害な鳥獣に擬態して、人間を地球を支配しようとする極めて悪性の、全く別の存在だ。鳥の羽毛を被って擬態した、〝虫〟たちの仕業だった。
こいつはある程度の距離以内にある人間の脳を跳躍するように移動して寄生する。物質と非物質の間を行き来できるのだろう。人間の脳に浸透する物質的ではない体躯を持ちながら、今こうして、地面に横たわっている事実が示す通り、金属バットで殴殺することも可能らしい。
もし、能動的に物質と非物質の間を往来できるのであれば、能動させない、つまり物質化しているタイミングへの不意打ちであれば、こうして倒せるということだ。
これで……これで……っ
足元で潰れるように死んでいる鳩のような生き物の死体を、数秒か、あるいは数分か、数えも出来ない時間の間睨み続け、ようやく心身の極限状態が解け始める。
片羽を広げる形に潰れた体、鱗をまとう有爪の足は折れて捻くれている。破れた腹部から内臓と骨が露出し、赤い液体が流れ出して溜まっている。首は直角近くに折れ曲がっていたが、残った頭部に付いた目がまだ見開かれている。羽毛のない肉に縁取られ白目のない深淵を詰め込んだようなガラス玉が、まだ私を映し出している。
こいつ、まだ鳥のフリを……!
がんっ!がんっ!がんっ!がんっ!
金属バットの先端と、脱力したばかりで震える腕では、ハトモドキの小さな頭部をピンポイントに狙うのは難しい。もっと落ち着いて狙えばいいのに、平常心を取り戻しきれていない私は、何度も地面を打ち付けて乾いた金属音を立て、既に潰れた羽毛の体を何度も潰し直す感触を手に受ける。五度目の打撃でようやく、頭部を潰すことが出来た。
がりっ、硬いものを砕く触感が金属バットを伝って手に流れ込んでくる。
持ち上げ直したその場所には、砕けた骨と嘴、少しの羽毛がある。目玉の形はもうわからなかった。
やっ……た……
こいつは、鳩じゃない。我々人間を意のままにコントロールする毒電波を発する何かもっと別の存在だ。虫。そう表現するのが適切だろう。脳髄に巣喰う非実体性のあの寄生虫を、私は殺した。
今度こそ膝に力が入らなくなり、その場に崩れるようにしゃがみこむ。それさえ煩わしく感じてしまった私は、そのまま地面にへたり込んだ。
そして、潰れたハトモドキの死体に手を伸ばす。
潰れた羽毛と肉と骨をほぐすように、その塊を手で掻き分ける。乾いた羽毛の感触と、ぬめる血の感触のコントラスト。まだ内側は生温かく、ぬるりとした血肉の感触に混じって細かく硬い骨の感触がある。
正体を暴いてやる。本当に存在さえするのか怪しい大気中の成分一つで、世界が国家転覆の出血大サービスだなんて。あり得るか、そんなこと。お前たちが、人間の脳に取り付いて、人間を操作しているんだろう
バットで砕ききれなかった骨の隙間に指を入れ、両手で広げるようにして割砕く。発信機やカメラの一つでも出てきてくれた方がまだマシだった。物質的実体を消すことができる精神寄生虫だなんて、そんな答えがRealなものか。
私が、狩り続けてやる
夢中になってハトモドキの死体を暴き、血に濡れた手で内臓を掻き分けて指を奥へ奥へと押し込んでいく私は、私とほとんど裏返しになったハトモドキの死体に覆い被さるように伸びた人影に、気付くのが遅れた。
はたと顔を上げると、そこには女が一人立っている。長身で、棒のようにスラリと伸びた背筋の特徴的な女だ。ある種の男好きのするスーツスタイル、首にはポーラータイが留められている。
このタイの留め具の形を私は、1秒として見ていられなかった。何の形なのかを脳が理解するのを拒否している。細長いシルエットが絡まって何かを意匠しているようだがそれが、何なのか記憶を手繰るのを、なけなしの理性が避けたようだった。
高すぎる背から私を覗き込むその女に、鳩に脳を乗っ取られた様子はない。あの虫が寄生したときの虚脱的な目はしていなかった。
そんなにしてしまっては、食用にも出来ませんね。鳩に何か恨みでも?
っ!?
知っている、この女の顔。そうだ、テレビで見たことがある。確か……
グレース・ボルツマン・トンベリ
あら、私って有名なんですね
偽者だろう。ゴムマスクでも被っているんじゃないだろうな。グレース・ボルツマン・トンベリは先月死んだ
そうだ。大気汚染に対する国家の責任を叫ぶ反PM.58の急先鋒と祭り上げられたその女だった。だが、その人物は、つい先日インドで殺されたはずだ。だが、女は確かに立っている。
あなたの目の前で?
は?
私が死んだなんて、誰が言ったんです?
ニュースで見た。SNSでも話題になった。当然だ、世界のグレート・リセットを牽引する旗手のような女性だった。環境破壊を止められない国家を刺し、企業による支配を招いたゲームチェンジャーだ。彼女の死は、バブルじみて膨れ上がっていた環境関連経済まで巻き込んだ。だがそれは弾けることなく今も加速している。「地球の未来は、グレート・リセットの成否にかかっている」全人類の共通認識だ。彼女の死は神話となって、今ではグレート・リセットの推進力となっている。彼女の死は、事実以外なにものでもない。
だが、女は、私を詰問する。
誰が、言ったんですか?
グレース・ボルツマン・トンベリの死を、伝聞でない形で口にする者は、私の周りには誰ひとりいない。〝誰が〟言ったか。強いて言えば、メディアだ。それは―
誰もそんなこと、言ってないんじゃないですか?私が死んだ、だなんて。目の前で起こってもいないし、誰が言ったかもわからない情報を、行動基盤として採用しているんですか?
一次ソースなど、今日日誰も求めない。無限の発信者の間で妥当であるのならそれは真であり、仮に偽ならば直ぐに発信者が現れ、情報は統計的に更新される。一次ソースとその証拠を探ることは、情報確度の担保の点で、効率が悪い。
〝みんなが言っている〟は即ち〝誰も言ってない〟と同じ。ああニンゲンとは、この星の支配知性である割に、本当に愚かな生き物ですね。
ケラケラと笑う女は、ヘビが鎌首でも擡げるようにその長身で、身をくねらせて私を見下ろしてくる。赤い唇が裂けて吊り上がり、切れ長の鋭い目は更に細まって鎌のように歪む。虫にとりつかれた人間たちの虚脱した無気力な目とは対照的な、あまりにも邪悪に強烈な意思を宿し見透かすような眼力。
お前らが、人間を、狂わせたんだな。鳩を使って人間の脳に入り込んで
随分だいそれた幻想を抱いたものですね?たった一人の平凡な人間が、急にそんな大局眼を得るだなんておかしなことだと思いませんか?ですが……ええ、私達にとって人間を脳から支配するなど容易いことです。ですが、それで操れる人間は1匹だけ。非効率的で、意味がない。どうせ操るのなら、もっと面白い人間を、そうしますよ
面白い人間、そう口走る女の不気味に済んだ瞳の表面には、私の姿が映し出されている。背筋が凍りついた。荒唐無稽な女の言葉には、何故か信じてしまう魔力がある。私は、もう脳を掴まれているのか?私はもしかしたら信じさせられているだけで……。しかし女は、私が、私が私であるか私ではないのか葛藤するのも気にする様子もない。―取るに足らないのだ。
しかし、より効率的に人間を支配するためのデバイスは、既に用意されていました。
デバイスだって?お前たち〝虫〟が作った思念動作器械で人間を操作できるっていうのか!?鳩が、それだっていうのか!
いいえ、これっぽっちも特別なものではないですよ。ほらこの、携帯電話。これは人間達自身の手で作り上げられた、人間を操作するためのデバイスですよね?手間がなくて助かりましたよ。
女は私の懐に手を差し込み、流れるような動作でポケットから携帯端末を抜き取った。
人間の脳にセキュリティなど無いに等しい。ですが、我々の直接的な介入など、不要でした。原始的なコミュニケーションデバイスをひとつ与えるだけで―
その携帯電話を、もう用済みだとでも言うように、地面に放り投げる。
―人間の心身など、こんなにも容易に操れてしまう。
私にはその携帯電話を見る余裕もなければ、ましてや取り返すほどの意欲さえない。私の視線は今、女の高い頭部に釘付けられている。
しかし実に興味深い、なぜ人間はこんな退廃的なデバイスとネットワークを作るのでしょう。これを使えば人間は、人間自身による支配へ自ら突入するだけだと、自明であるのに。そもそも人間が、誰かに操作されたがっているとしか思えません。
女の頭の上から、頬に、こめかみに、耳に、顎に、首に、張り巡らされるように絡みついた、針金のような細い足。几帳面なまでに三角の羽。宇宙的リズムで捻くれ跳ねる触角。深淵を落とし込んだ複眼。女の頭部には、いや脳には、あの虫が取り付いていた。そして頭部から長細く飛び出た筒状の器官の先端から、非物質的な色彩の筋が流れるようにしなり伸びている。その先端がゆっくりと私の頭の上へ。
お、私に侵入する気か……!?ぎゃっ!!!!
だがその恐れは裏切られた。その色彩の筋は次の瞬間、閃くように動いて私の体を打ちつける。非物質的なそれは私の体と物理的に接触することなくまるで空振られたように通り抜けたが、その瞬間私は、この世のものとは思えないほどの痛みを感じた。
「感じた」正しくそれだけだった。不思議なことだが、肉体は全く痛みを訴えていないのだ。だと言うのに私の脳は、その箇所の痛み〝だけ〟を、全身に向けて発信している。
私は形のない痛みを全身に流し込まれ、地面を転げ回りのたうち回って叫び声を上げる。
PM.58と呼ばれている汚染物質ですが、その点についていえば、我々と人間は価値観を同じくしています。PM.58は我々にとっても非常に厄介な物質です。PM.58のせいで我々は、長距離のボソンジャンプが出来ない。
ということは、PM.58の除去はやはり……ぎゃああっっっ!
私はこのへんで失礼しますが
女……いや、女の頭の上に乗っている虫は、愉快そうに、いや女の表情を愉快そうなそれに変化させながら、私を色彩の帯で鞭打ち続けた。
痛みに七転八倒しながら目に入ってきたのは、やつが転がした携帯端末のディスプレイだった。そこにはニュース速報の映像が映し出されている。動画。音声。文字列。SNSからリンクされたものらしい。「TheEarth!TheEarth!」と半狂乱になって叫びながら、国会議事堂を破壊する夥しい数の人間。公権は機能せず、政府は民衆に抵抗するのをやめている。
我々と人間の間で、利害が一致しました。〝大気汚染は止めなければならない〟。ですから人間の要求に応じ、私達はそれを為したのです。そうですね、これを、救済、と呼んで頂いても、結構ですよ。
ニュース映像の向こう側の人物だけではない、キャスターもアナウンサーも、すべての人類は、現国家の暴力的行動による転覆を喜び、歪んだ歌を声高に奏で、興奮して金切り笛を吹き、知性のないダンスを踊っている。狂喜だ。
日本という〝国家〟は、扇動された市民たちの手によって失われようとしている。PM.58を起因とした、エスカレートした環境保護デモの末に。大気汚染浄化を掲げる何れかの〝企業〟が、その支配を簒奪するだろう。確かなる市民の信任を受けて。
人間達に、おめでとう。そしてあなたには、ご愁傷さま。
女が不気味に私を笑う。体中を駆け巡る透明な激痛は最早どうでも良くなっていた。今私の頭の中で膨らむのは、人間種の終焉と、地球の支配権移行に対する、恐怖の方だった。
潰れた鳩の死体が見える。ああ、それは、私の姿ではないのか。
彼らの活躍著しく環境汚染に歯止めをかけ清浄さを取り戻した母なる地球、碧く美しき海原をゆく彼らの船は、まこと奇妙な姿をしていた。新たなテクノロジーでも搭載された新鋭艦なのだろうか、それは光を受けても輝くことなく生気のまるでない金属光沢の暗灰色に沈み一碧万頃の水平線に余りにも不自然な鈍色を穿っているが、何よりその形状だ、船と言われて想起するあらゆる形状を逸しておりそれは円錐形の側面に複数の円柱突起を備えた奇異なる威容を見せていた。化石燃料の利用を捨ててなお地球を一周して見せた新時代のクリーンな船舶、と言うには些か……こう形容するのが適切なのかはわからないが、直視できないほどの忌まわしい印象を受ける。
グレート・リセットへの道のりが提示され、世界のあらゆる企業支配法人がその指標を目指している。
異端に問われた私はしかし対論の論客としてその立場を許されていた。おそらく大気汚染肯定派は、世界中に私一人しか残されていないだろう。私を生き残らせることが民主主義の免罪符として機能し、同時に一人だけを生き残らせることで見せしめとなっている。
この度、ある企業に祝祭へ招かれて再び「清浄大気実験閉区」へと足を運んだ。そしてかの船が披露目される。それを奉じて市民の環境意識高揚を期すると同時に、進むグレート・リセットへの道筋を広告するらしい。存在を許容される私はそこでも見世物として展示されるのだろう。形式上VIPの待遇でその祭典を見ることになったが、その実、欠席など許されない強制出席であり、見せしめる晒し者に違いなかった。
清浄大気実験閉区の長官が、船を背景にスピーチを始めた。視線の合わない強度の外斜視を見ていると、どうしようもなく不安を掻き立てられてしまう。だがしかしそれよりも、それを差し置いてもなお正気がここには無いようなふわふわと揺蕩うような視線、喋りというより囀りのような細く伸びる歪な声が、無性に私の恐怖心を駆り立てた。
グレース・ボルツマン・トンベリ。彼女の活動はこの地球と人類に新たな未来を示した。我々の足を絡め取る汚染された空気は斯くして見事浄化され、我々はいよいよ自由を取り戻し思い思いの場所へ渡る足を取り戻した。
我々は次の問題に取り掛かる;つまり我々は我々の神をどの程度強く奉じるべきかだ。我々は信仰を俯瞰し制御する必要に迫られている。星の大厄災は我らの神に引き寄せられたのか、星の大厄災が我が神の御姿を不完全たらしめたのか。
神?信仰?長官のスピーチに何やら奇妙な単語が登場したのを耳にして、私はまず訝しみ、そして次の瞬間に恐怖に引き攣った。今私の顔は、長官の異常めいた顔よりもよほどに常軌を逸しているだろう。誰か、この恐怖を共有できる者はいないか?あろう筈がない、何故なら今この地球上に、彼等にあるいは彼等の思想に冒されていない人間などおそらく一人も残されていないだろうから。百歩譲って、そうした精神的感染拡大状況が、彼等の持てる不可思議なテクノロジーあるいは彼等特有の不可知の精神干渉能や、全地球規模に広がった未知なる毒物に因るものであるのなら、この口惜しさを墓場にまで、砕かれる魂の餞にしても構わない。だがそうではない、この状況を作り出したのは他でもない人間種自身のお粗末なテクノロジーなのだと思うと、私はもっと早い段階で絶望しておくべきだったのだと後悔するしか無い。彼等が手ずから掌握したのはほんの一握りの人間だけだ、後は人間製の電子端末が勝手に支配の網を、地球上にたった一人を除いた人間全てに行き渡らせた。その結果が、ほんの数十匹しかいない昆虫による、地球人類全体の支配の完成だ。人間自らそれを行ったのだ。これを喜劇と呼ばずしてなんとする。
彼等の苛烈なる嗜虐趣味はしかし支配によって行うばかりではないらしい、どうやら支配しないことによっても十分すぎる拷問を成し遂げられると、理解づくなのだ。
今、私の恐怖は、異端が私ではなく私以外の全てであった事実を誇る余裕もなく、残された私の理性と希望を易々と引きちぎってしまった。絶望さえなまぬるい、この恐怖を誰に向けても説明し得ないことの口惜しささえ、今はただ星のない宇宙のように虚しい。この地球上にたった一人残された〝人間〟性が、私たった一人であることへの、純然たる虚無感。そして、彼等の支配がなった地球への、名状しがたい恐怖だ。
彼等は更に言葉を重ね、私の恐怖を煽って虐待し、愉しもうとする。私は膝から崩れ落ち、天を仰いだ。その天には、今や別のものがあった。
しかし、我々はいよいよ自由である。再び、為そう。
愚にして全能なる我らが父、知性なき意思の姿は因無き果の形なり;目を持ち耳を持ち手足と姿を持ちながら意思を持たぬ純然たる現象である。灯火の届かぬ暗闇犇めく他次元洞窟の奥底で、掠れたフルートの鳴らす宇宙的リズムの下繰り広げられる知性なき無数の鼓舞が、その不定形の体を絶え間なく揺らし震わせている。さあ、その名の呼ばれることなき我が父を、我らこの星へと喚ばん。
海に浮かぶ灰白色の船が彼等の神殿であることに気付いた私はもはや、自らの命を断つ以外に私の自我を私のものとして維持する術はないと、悟ってしまった。もはや空に、ジャンヌ・ダルクは愚か、私の祈りさえも聞き届ける神はいない。我らの神の声も私には二度と届くまい。なぜなら今この地球にあるのは、全く忌まわしい異神の欠片とその神殿だけなのだから。
かの神殿の周りを、あの忌まわしい虫達が、生身のままで飛んでいる。もう、人の脳に巣喰う必要さえないのだ。